とまどい

名づけられず。とらわれず。まねではないもの。

これが、わたしの作りたいものです。

でもそんなもの、作ることはできるんだろうか。

これも、いつも考えることです。

作りながら、うすうす感じています。
たぶんそれはできないんです。

ただ、可能性があるかもしれないのです。
作ることはできなくても、成立する瞬間があるかもしれないのです。

それは、とまどいの瞬間です。
なにかを認識する直前の、ほんの一瞬の間です。

これなに?

見た人がとまどう瞬間、わたしの作りたいものは成立するのかもしれないのです。

境界

作品づくりの中での悩みのひとつに
キャンバスの縁の部分の扱いというものがあります。

キャンバスの縁は、目には入るものの、作品の主であるとは言えない部分です。
正面からの連続で、色を乗せてみるのですが、ぱっとしません。
だからといって、なにもしないままなのも気に入りません。
テープを貼るのも気が進みません。
どんな扱いをしても、そこには違和があるのです。

いったい、この縁の部分は、なんなのでしょう?

縁の正体がわかれば、その扱いの方向性も見えてくるかもしれません。

作品には、正面と背面があります。
作品の主たる部分である正面と、作り手以外、ほぼ見ることのない背面です。
一見意味がなさそうな背面も、なければ正面が存在しません。
そして、このふたつの面をつないでいるのが縁なのです。

たとえば、キャンバスの正面部分を此岸と考えれば、背面は彼岸となるでしょう。
ならば縁の部分は、此岸と彼岸とを結ぶ三途川となるのではないでしょうか。
三途川、すなわち境界です。

キャンバスの縁部分は
正面と背面というふたつの異世界をつなぐ境界であったのです。

縁が境界であるならば、そこは、正面でもなく、かといって背面でもなく
または、正面であり
なおかつ背面であるような存在であるということに納得がいきます。
縁に感じた違和は、境界という性質上、当然なものだったということでしょうか。

縁が境界であるなら、その違和を取り去ることは、なかなか難しそうです。

けれどもいつか、この違和を最小限に抑えるような
縁の扱い方をわたしは見つけたいのです。

とらわれる

「創作というものは、とらわれることから始まる。
とらわれないようにもがきながらも、とらわれてしまうのが創作活動なんだよ。」

上村忠男先生は、ワイングラスを片手に、ふふふと笑いながら言いました。

 

どんな作品を作ろうかと、スケッチブックを開き、思いついた形を描き連ねてみます。

少し経って、ふとパラパラとスケッチブックの前のページに戻ってみると、そこには、似たような色や形が並んでいます。

それを見たときの、がっかりするような気持ち。

 

なんで同じようなものしか描けないのだろう?

自分はなにかにとらわれてるんだろうか?

 

ちょっとちがうものを描いてみようかと意識しながら描きだすと、今度はそれが、なんだか嫌なものに見えてきました。

 

 

描こうとするとき、わたしはどうやら、勝手にルールのようなものを作って、それに勝手にとらわれているようなのです。

そこから自由になってやろうと、もがいてみるのですが、どうもうまくいきません。

同じような色や形に疑問を感じながらも、まったく違うものには魅力を感じないようなのです。

 

上村先生に質問をしたのは、そんな時でした。

 

そういえば、鉛筆をつかってスケッチブックを使い続けていることも、ひとつのとらわれの形です。

ルールを作ることだけでなく、作ったルールを守らないようにすることも、結局はとらわれているということです。

自由でありたいと思うことさえ、自由というものにとらわれているということになります。

そうすると、なにかにとらわれないことには、本当になにもできません。

 

でも、とらわれたくないのです。

とらわれない方法を見つけたいのです。

 

とらわれないと作れないのに、とわれない方法を探す。

それはまるで、目に見えない橋をかけ、渡ろうとしては落ち、それでもまだ渡れることを信じて、その目に見えない橋をかけつづけるようなものなのかもしれません。

まねのまねのまね

わたしの作品を見たある人が言いました。

 

「こないだとおんなじだ」

 

その言葉を聞いた瞬間、わたしはなんだか感情的になりました。

 

おんなじ?そんなことはない!これは、まったく違うものだ。色もちがうし、形もちがう。

どうして前回とおんなじだと言うことができる?

 

しかし、少し落ち着いてから、わたしは考えてみたのです。

 

「こないだ」と「おんなじ」ということは、

「こないだ」が「オリジナル」の作品であって、これはその「まね」ということなのだろうか?

 

 

その人がその作品に「おんなじ」という判断をくだしたとき、そこにはなにかしらの基準があったに違いありません。

それは、例えば色彩だったり、技法だったり、形だったりしたのでしょうか?

「色」「形」「技法」というような、基準とするものが「ある」からこそ、その人は作品を比較し「おんなじ」という結果を導きだすことができたのでしょう。

 

そしてその人は、その基準が当然「ある」と信じて疑いません。

無意識に基準があると考え、その基準はすべての人に当然「ある」ものだと思い込んでいるからこそ、判断ができたのです。

 

しかし、その基準は当然「ある」ものなのでしょうか?

 

例えば、黄色に近い緑は、黄色なのでしょうか?緑なのでしょうか?

赤に近い橙は、赤なのでしょうか?それとも橙なのでしょうか?

どちらに分類されるのでしょうか?そして分類するときの基準はどんなものなのでしょうか?

 

 

当然「ある」と考えられている基準は、実は大変曖昧なものの上に立っています。

それなのになぜか、基準は「ある」ものだと思われています。

 

ここからが黄色で、ここからが緑だ。という判断を、はっきりすることはできない。

それは分かっているのに、なぜか、黄色と緑を区別して判断することはできると思ってしまいます。

不思議です。

これは黄色。これは緑。と判断することができる。黄色と緑には明確な基準があるのだ。

と、いう考えが強すぎて、そこから逃れることがなかなかできないのです。

 

しかし、黄色と緑の境は曖昧なのです。境が曖昧ならば、基準を作ることはできないはずです。

 

 

基準は作ることができない。

 

では「オリジナル」とは、なんなのでしょうか?

なにを頼りにどうやって「オリジナルではないもの」から「オリジナル」を見つけだしたらよいのでしょうか?

 

「オリジナル」の基準を作れないならば、「オリジナルではないもの」から、「オリジナル」を区別することができません。

「オリジナル」を見つけ出すことはできないのです。

いえ。そこには「オリジナル」などないのです。ただ「オリジナルではないもの」=「まね」だけしかないのです。

 

その「まね」は、なにのまねなのかといえば、「まねのまね」であり、「まねのまねのまね」であり、じつは、「まねのまねのまねのまね」なのです。

そしてその「まね」は、見えない向こうまで、永遠に続いていくのです。

名づけられないもの

名づけられないもの

それは、わたしが名づけることができないだけで
誰かは名づけることができる。
と、いうものではなく
誰も名づけることができないものです。

そこに、言葉はないのです。

作品を作りながらわたしは、
題名を見つけることができずにいつも悩んでいました。

どうしてか、よい言葉が思いつかないのです。
いつも苦しんで、ようやく題名のようなものがついて一度は納得します。

けれどもしばらくすると、なにか違和感のようなものが残ります。
その題名と、わたしの作ったものは、どこでどうつながっているのか、
だんだんとわからなくなってくるのです。

一度選んだ言葉には、きっとなにかのつながりがあるはずなのですが
その言葉が、どこかで行き詰まります。

なぜなのでしょうか?

わたしは考えました。

わたしは、抽象的ななにかの作り方を3通りくらい見つけました。

ひとつ目は、なにか具体的なものをデフォルメして抽象的なものを作る方法。
ふたつ目は、言葉や考えから導かれるものを抽象的に表現する方法。
そしてみっつ目は、既存の言葉や考え、具体的なものとは、関係のないところから、なにかを作りだそうともがく方法です。

ひとつ目とふたつ目の作り方には、言葉とのつながりがあります。
ですから、 題名というものとの関係を持ちやすいでしょう。
けれどもみっつ目は、言葉と関わりを持たないものです。

わたしが、みっつ目の作り方を実践しようとしているのならば、
題名がつかないことは、至極当たり前のことかもしれません。

けれどもここで、気をつけなくてはいけないことがあります。
それは、言葉と関わりを持たないものを作ろうとすることは、なにも考えずに漫然となにかを作ろうとしている訳ではないということです。

わたしが作りたいもの、それはなになのでしょうか?

わたしはなにを作っているのでしょうか?

そこには、言葉がないのです。言葉では表現できないのです。
わたしが作りたいそれを知るためには、それを見るしかないのです。

いぐち なほ

こっそりアート

こっそりアートとは

こっそり、アート活動したり

こっそり、アート体験したり

こっそり、アートを見つけたり

こっそり、アートコラボしたり

こっそり、ひっそり、アートを楽しむことです。

こっそりアーティスト
いぐち なほ

忘却の穴

ーそれらは、誰もがいつなんどき落ち込むかむしれず、落ち込んだら嘗てこの世に
存在したことがなかったかのように消滅してしまう忘却の穴に仕立てられたのである。ー

「全体主義の起源3」
ハナ・アーレント
大久保和郎・大島かおり訳
みすず書房