わたしの作品を見たある人が言いました。
「こないだとおんなじだ」
その言葉を聞いた瞬間、わたしはなんだか感情的になりました。
おんなじ?そんなことはない!これは、まったく違うものだ。色もちがうし、形もちがう。
どうして前回とおんなじだと言うことができる?
しかし、少し落ち着いてから、わたしは考えてみたのです。
「こないだ」と「おんなじ」ということは、
「こないだ」が「オリジナル」の作品であって、これはその「まね」ということなのだろうか?
その人がその作品に「おんなじ」という判断をくだしたとき、そこにはなにかしらの基準があったに違いありません。
それは、例えば色彩だったり、技法だったり、形だったりしたのでしょうか?
「色」「形」「技法」というような、基準とするものが「ある」からこそ、その人は作品を比較し「おんなじ」という結果を導きだすことができたのでしょう。
そしてその人は、その基準が当然「ある」と信じて疑いません。
無意識に基準があると考え、その基準はすべての人に当然「ある」ものだと思い込んでいるからこそ、判断ができたのです。
しかし、その基準は当然「ある」ものなのでしょうか?
例えば、黄色に近い緑は、黄色なのでしょうか?緑なのでしょうか?
赤に近い橙は、赤なのでしょうか?それとも橙なのでしょうか?
どちらに分類されるのでしょうか?そして分類するときの基準はどんなものなのでしょうか?
当然「ある」と考えられている基準は、実は大変曖昧なものの上に立っています。
それなのになぜか、基準は「ある」ものだと思われています。
ここからが黄色で、ここからが緑だ。という判断を、はっきりすることはできない。
それは分かっているのに、なぜか、黄色と緑を区別して判断することはできると思ってしまいます。
不思議です。
これは黄色。これは緑。と判断することができる。黄色と緑には明確な基準があるのだ。
と、いう考えが強すぎて、そこから逃れることがなかなかできないのです。
しかし、黄色と緑の境は曖昧なのです。境が曖昧ならば、基準を作ることはできないはずです。
基準は作ることができない。
では「オリジナル」とは、なんなのでしょうか?
なにを頼りにどうやって「オリジナルではないもの」から「オリジナル」を見つけだしたらよいのでしょうか?
「オリジナル」の基準を作れないならば、「オリジナルではないもの」から、「オリジナル」を区別することができません。
「オリジナル」を見つけ出すことはできないのです。
いえ。そこには「オリジナル」などないのです。ただ「オリジナルではないもの」=「まね」だけしかないのです。
その「まね」は、なにのまねなのかといえば、「まねのまね」であり、「まねのまねのまね」であり、じつは、「まねのまねのまねのまね」なのです。
そしてその「まね」は、見えない向こうまで、永遠に続いていくのです。